神田川にこんなに深い歴史があったとは知りませんでした。
神田川のもとの名前は平川といい、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。当時は、この平川が豊嶋郡と荏原郡の境界となっていた。15世紀に江戸城を築城した太田道灌は、平川下流の流路を東に流れるように改修し、河口を日比谷入江から隅田川に至る、ほぼ現在の日本橋川の河道に付け替えた。この改修により、新しい平川の流路の左右に江戸城の最初の城下町が発展した。
1590年に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。
家康の死後、2代将軍徳川秀忠は江戸城の東北の守りを固めるために平川を天然の堀とすることを企図し、小石川から南流していた流路を東に付け替える工事を行った。この工事では、水道橋から東は神田台と呼ばれる台地が本郷から伸びていたため、これを掘り割って通し、御茶ノ水に人工の谷を造った。神田台の東では、もとからあった川を利用して神田台から真東に浅草橋、柳橋の東で隅田川に合流するようにした。秀忠の改修によって、平川のもとの河道は切り離されて江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は神田川と呼ばれるようになる。神田台の掘割の西には水道橋がかけられ、神田上水は日本橋まで給水できるようになった。
のちに日本橋の旧平川河道と神田川は再び結び付けられ、日本橋川となった。
また、高度経済成長期には生活排水が流入し水質が非常に悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網・下水道処理施設の整備が進んだことや、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善され鯉や鮎、鮒など魚影が濃くなっている
引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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